「ジャズ的なるもの」その1
「それは愛を語らず、それは心を慰撫しない。それはとり急いでいる。地下鉄に乗ったり、自動販売機から料理を取り出す簡易レストランで食事する人々のようだ。それは黒人奴隷達が百年間歌い続けた歌でもない。黒人奴隷のことなど気にもかけられないのだ」
「それは愛を語らず、それは心を慰撫しない。それはとり急いでいる。地下鉄に乗ったり、自動販売機から料理を取り出す簡易レストランで食事する人々のようだ。それは黒人奴隷達が百年間歌い続けた歌でもない。黒人奴隷のことなど気にもかけられないのだ」。1947年の「ニューヨーク・シティー」のテキストでサルトルがジャズについてこのように言説しているが、「ジャズ的なるもの」とは、魅惑するジャズ、慰撫なきジャズ、やさしさなきジャズであって、ブルースでもノスタルジックでも不良中年のジャズでもない。もはや我々が構築した日常と思い込んでいるものなど、構造改革などとプロパガンダしなくとも黙っていても内側から壊れ始めているのだ。家族も国家も自然も企業も、すべての群れとなって均衡を保っていたものが再構築されている。それは古いビルが壊された更地、あるいは駐車場の後に新しい超高層ビルが立ち、とり急ぐようにその顔を日々変容していく都市そのものに似ている。都市そのものこそ「ジャズ的なるもの」であり、郊外や田舎や地方に住んでいるいわゆる田舎者にとっては、関わりもない世界であり音楽だ。ボクは都市生活者と弧族のためにだけ、言葉を発し続け音楽を聴き続けようと思う。それもテクノ・サイバーパンクのようなスラム化した都市ではなく、「企業と生活者の共通認知である理念にもとづく商品化と買い手である生活者の文化によって形成される」趣味の悪い高価な商品で溢れるブランド・ショップが整然と並んでいる人工モダンな都市だ。もっと言うなら「ジャズ的なるもの」とは、青木保が80年代に「音楽の手帖 ジャズ /見えない音楽としてのジャズ」で、相倉久人との対談で語っていた的を得た正しい言説「現状を変革するとか、体制や組織とかいうものを引っくり返すとか、そういうものではなく、むしろ内部にあって、構造的なものをいわば溶かしていくような、あるいは構造のなかで反構造として存在するようなひとつの契機で、そのためにコミュニスタだとかのことばをつかうわけです。・・・つまり社会構造にはめこまれた、祝祭だとかカーニバルとかいった、反構造的なものとしての要素としてあるわけです」だ。
そしていま、内側から溶けだしたものから現出した90年代のレイヴ、テクノ、アブストラクトなどなどのクラブミュージックが終焉したあとの静寂、背中に遠くで壊れゆくものを聴くこと、それが「ジャズ的なるもの」の正体だろう。
"オマエラノ、キイテイル、アタマニ、スリコマレタ、フルイ、フルイ、オンガクナド、ハヤク、ステテ、ココマデ、オイデ、テノナル、ホウエ"
**自分の写真をブログで使うのは初めてだな。
コメント ( 7 )
「心を慰撫する音楽」を聴く背景には「脆弱な自我」を辛うじて保持する為の機能があるからでしょう。
「ROCK的なるもの」は「意味」、「ノイズ的なるもの」は「無意味」、「jazz的なるもの」は「脱意味」だと考えています。
僕が今、求めているのは共同幻想による自我の確立(ROCK的なるもの)でもなく、総ての人間に共通した泣きのカタルシスでもなく、ましてや混沌(ノイズ的なるもの)ではありません。
明鏡止水な心境なのです。
投稿者: 平野隼也 | 2007年10月05日 00:02
日時: 2007年10月05日 00:02
くもりのない鏡と波立たない静かな水、心にやましい点がなく、澄みきっていること。「—の心境」か。それならキミに音楽など必要ないかも。だけど、そんなことって、可能なの。禅寺にでも出家してみるか。ボクなんて欲望に溺れ切っているかも。音楽なんてそれこそ欲望から生まれるものだからね。
投稿者: 阿木 譲 | 2007年10月05日 00:27
日時: 2007年10月05日 00:27
僕自身も欲望に溺れているので、決して欲望を否定している意味で使ったのではなかったのですが、言葉の使い方が良くなかったです。「理路整然とした思考」の方が適当でした。
しかしながら宗教の「明める」という考え方は日常で重要なことではないかと思っています。勿論宗教を全肯定しているわけではありませんが。
投稿者: 平野隼也 | 2007年10月05日 01:42
日時: 2007年10月05日 01:42
人は音楽を語るとき、過剰にその歴史やそれについて書かれた評論などに引きずられて『意味』を強要しすぎるように思えます。
一方で自分では音楽にそれほど意味を求めようとしないのに、自分で音楽を書こうとする時はその意味を考えてしまいます。このアンビバレンツな感覚をクリアできないかと考えますが、なかなかに難しいです。
投稿者: 辰巳哲也 | 2007年10月05日 09:28
日時: 2007年10月05日 09:28
キミのこのコメントはボクの文章を批判しているってこと? 言い切ってしまえば、音楽について語るというのは、その音楽とはまるで関係のない、書き手個人の言説であるということだ。当時サルトルが一番好きだった音楽はクラシックであり友人のボリス・ヴィアンから導かれたジャズの知識と音楽要素によってジャズについて語っているだけだ。音楽評論などそもそも成立しない。音楽から派生するものといえば、ジャーナリズムとして唯一音楽雑誌を編集することだろう。それとも音楽を素材にした文学かだ。ボクの音楽にまつわる言説は、ボク個人の口からでてきたもの。それがイコール、100%ジャズの本質をついているとは言えない。だからといって間違っているとも言えない。ボクは評論というより音楽による"いま"という時代意識を読み解くことが目的かも。TVのCM、CFなどなど「ジャズ的なるもの」は既に多くみられるが、もっと日常的に顕現してくるだろう。それにしてもキミはミュージシャン? それとも評論家?
投稿者: 阿木 譲 | 2007年10月05日 18:51
日時: 2007年10月05日 18:51
いえ、阿木さんの文章の批判ではありません。
過去のレコードのライナーノーツ(コルトレーンのレコードのライナーなどで、詩人の人がああだこうだ書いたりしているのを見ると辟易します)であったり、もしくはそうしたいわゆる評論家の方が評論だと言って書かれている文面が、実はその人の主観に過ぎず、客観的かつ冷静に音楽を捉えていないように見られることに対するストレスについて書いたものです。阿木さんのコメントはそうしたものとは無縁で、そうした旧態依然とした評論文を見てきた自分からは非常に新鮮ですし、隔靴掻痒としたところを解消させてくれるものですし、色々なことを気づかせてくれるものです。
個人的には、いちいちその意味合いとかを考えるのではなく、食事をしたり、会話をしたりするのと同じように自分の中にある音楽的なアイディアを表出し、記録できたらどれだけいいかと。そうしてできるものが新しいかどうかは分からないのですが。
投稿者: 辰巳哲也 | 2007年10月06日 21:06
日時: 2007年10月06日 21:06
ミュージシャンでないボクらは、音楽にできるだけ近付きたいがために、批評や文章でもってあれこれ思索するんだと思います。ミュージシャンはどんなつまらない音楽を創造しても、それで完成されていて、羨ましい存在です。音楽を目で見ることができたなら、どんなに素晴らしいことだろう。でも、見えないものだからこそ、ボクには至上の快楽でもあるのだけど。
投稿者: 阿木 譲 | 2007年10月06日 21:24
日時: 2007年10月06日 21:24