近藤等則のエレクトリック・トランペットと東野祥子(BABY-Q)のコンテンポラリー・ダンスによるコラボレーション「BENDING NEW CORNERS」
'07 10.19 at jaz' room nu things
「テクノロジーと人間の力をミックスしたものが21世紀型の新しいバンド」「機械は機械の音として使えばいいのでね、機械を人間的にしようなんて、おかしなことだよ」。近藤等則が彼のブログでテクノについて発言しているこれには、ボクも同感だ。ステージが終わってnu thingsのソファーに座っている彼に、ひとつだけ意地悪な質問をした。「なぜいま、機械でマニュピレートしながら、ひとりで音楽を演奏しているんですか?」と、「いや、俺はビル・ラズウェルやジョン・ゾーンなどとも演奏しているよ」と彼は答えた。その後、2言3言話しているうちに、若いファンが我々の会話を遮ったのでそれで話が中断し、それっきりでボクは席を立った・・・。ボクが聞きたかったのは、そうしたジャズトランペッターとしてのセッショナリーな答えではなく、自分の理想とする音楽を演奏するには、ひとりでやらざるをえない時代だからなんだという言葉だったのかも。それにしても近藤等則もつねに孤高のアーティストだと思う。彼の名前を初めて聞いたのは、80年初頭にロンドンでデヴィッド・トゥープ(David Toop)に会った時だ。当時、トゥープはオブスキュア・レーベルでイーノなどとも関わり、また自身のQUARTZレーベルを立ち上げニューギニアの「Sacred Flute Music...」などの数枚のアルバムをリリースし実験的な試みを始めていた時期で、「阿木、キミは近藤等則というニッポン人を知っているか?」というのが、彼の名前や音楽を知る契機だった。先日レコード倉庫を整理していたら、当時のQUARTS、Y−RECORDSの全作品がでてきて、そのなかに82年にY-RECORDSからリリースされた「IMITATION OF LIFE/Tristan Honsinger, Steve Beresford, Toshinori Kondo & David Toop」を見つけたが、あれからもう25年もの歳月が経っているんだと、懐かしかった。
近藤等則の時代とともに変わり続けようとする実験的姿勢、そして、どこにも属さないフリーでグローバルなスタンスは、いまも当時と変わらない。
nu thingsでの近藤等則のエレクトリック・トランペットと東野祥子(BABY-Q)のコンテンポラリー・ダンスによるコラボレーション「BENDING NEW CORNERS」は、打ち込みによるシャーマニックでうねるグルーヴが1時間もの間、延々と続き、イコライザーで加工されたトランペットの音が、まるで彼の魂の声と、熱くクールな息を聴いているかのように、うねる音響の流れを切り裂いていた。東野祥子のダンス・パフォーマンスもそのうねる音の波にのるサーファーの身体のごとくトランスし共鳴していて美しかった。こうした音楽は40代のオーディエンスのためのものかなと思っていたにも関わらず、10-30代の若いオーディエンスたちで席は埋めつくされていた。いったい40代の彼らはどこに消えてしまったのだろう。聞くところによると、ロックやノイズ、スカムを聴いていたあの世代は、少なからずみんな病んでるんだとか。そうだろうな。
コメント ( 3 )
音楽を一人で作るとき、その人の使いたいと思う楽器や機械に習熟していないと自分の中にあるイメージをきちんと表に表出できないという恨みがあります。自分のイメージする音を波形をいじって作るとか、そういうディテールまで一人で作り上げられるような音楽家は世界でも極めて少数なのではないかと思います。一方、その楽器や機械なりのスペシャリストと複数の人数で音楽を制作すると、自分だけでやる技巧やアイディアとは異なるものがブレンドされて面白いことになる可能性も多くあり、一人でやらざるを得ないのかどうなのかということには、明確にこうだという考えを持つのが難しいです。すべてを一人でやるということを考えた時に、なぜかピエール.アンリを思い出してしまいました。
投稿者: 辰巳哲也 | 2007年10月24日 11:04
日時: 2007年10月24日 11:04
現代音楽、アブストラクト、音響系的な世界を構築するには、キミの言うように機械やコンピュータに精通し、かつ音楽理論も掌握していなければ、単にノイズチックな糞の垂れ流しのようなつまらない音楽しか構築できない。ニッポンでのアブストラクト(ヒップホップをも含めた)、音響系の音楽は、その多くが音楽スキルのないアーティストがスカム的にノイズのような聴くに耐えないものを輩出している。ピエール・アンリのテレヴィ番組用に創られた「フューチャラマ/サイケロック」のリメイクも、90年代にクラブシーンでダンスミュージックとして話題になったが、美しいほどのミュージック・コンクレート的構造が聴かれた。音楽的感性が同じではない、また有名になろうとかの志のないメンバー間のコミュニケーションが困難な時代には、ひとりで音楽を創造するしかないのかも。それともジャズ界でのやりかた、テクニックを持ったミュージシャンをセッショナリーに金で買い、演奏してもらうかだな。辰巳哲也もそろそろ自分でノルウェージャズのキーボーディスト、ブッゲ・ヴェッセルトフトを呼んで共演、セッションする時期じゃないの?
**誤解されると困るので、追記しておくけれど、当日の近藤等則の音楽は明らかにクラブ系の感覚を持ったアブストラクト・ジャズだった。
投稿者: 阿木 譲 | 2007年10月24日 18:30
日時: 2007年10月24日 18:30
私は近藤さんの音楽はそれほど聴いていないので、正鵠を欠くかもしれませんが、氏の音楽はビートとエレクトロニックというところに寄るところが非常に大きいという印象があります。同時に氏の音楽でのジャズという記号は絶対的に音楽を支配しているわけで、エレクトロニックかつ楽音の比率が音楽から減ると、自動的にアブストラクトな感覚の音楽になっていくのだと思います(これってポストモダンなんでしょうか?)。
ブッゲやジェイソン.スゥインスコーと対峙するにはこっちも相当アブストラクトについての情報を仕入れておかないといけないと感じています。それは阿木さんがいみじくも仰ったように『同じ音楽を聴いているからといって同じレベルで音楽を聴いているわけではない』からです。他人と一緒に音楽を作る難しさはそういうところにもあるように思えますし、そこが主体的に未知数であってもまずはやってみるべきという考えもできます。その自分自身の判断というか割り切りというか思い切りというのがまた難しいと、いつものようにグダグダと考えてしまうわけです。
投稿者: 辰巳哲也 | 2007年10月24日 22:28
日時: 2007年10月24日 22:28